TIPコラム

都会で集まって住むということ  URまちとくらしのミュージアム(2023〜)  

2026.03.30

ミュージアムの前より、旧赤羽団地の41号棟(右)、44号棟(左)を見る。建替えに際して、板状階段室型の41号棟、三つの住戸を連結し、プランが三角形のスターハウスが残され、団地初の登録有形文化財に指定された

 

 いまでは「マンション」といわれる集合住宅が、都会でのふつうの住まいとなっています。その起点となったのが、関東大震災後に復興事業のひとつとして建てられた同潤会アパートであり、戦災復興として大幅な住宅不足という社会的な背景をもとに、1950年代に住宅公団(現UR)によって建てられたさまざまな団地群でした。旧赤羽台団地の跡地につくられた「URまちとくらしのミュージアム」は、戦前の同潤会代官山アパート(1927)と戦後の代表的な団地である蓮根団地(1957)、晴海高層アパート(1958)などの復元住戸を見ることができます。戦前と戦後を貫いて、都会で住むかたちがどうつくられてきたのかを知ることができる興味深い博物館となっています。

代官山アパートの世帯住戸の居室。白い壁の中の和と洋のしつらい
代官山アパートの単身住戸の居室。固定ベッドの脇に廊下に通ずる通風窓が設けられている

 

 同潤会は、1923年の関東大震災の際に海外から寄せられた義捐金をもとに設立された財団法人です。災害につよい、日本では最初期の鉄筋コンクリート造の集合住宅を都市部に供給しました。それは、住宅供給とともに都会であつまって住むかたちを社会へと提案するものでもありました。東京の青山、代官山、江戸川などはよく知られていますが、中には、働く単身女性のための大塚アパートなども含まれています。復元展示されているのは、代官山アパート。そこには、世帯住戸と単身住戸があります。部屋の大きさはもとより水回りのある世帯住戸とない単身住戸があります。単身住戸は居室機能しかありません。その代わり、代官山アパートには共有部分として食堂があり、共同浴室がありました。(こうした、共有スペースが戦後に展開する団地には継承されませんでした。)

蓮根団地のダイニングキッチン。テーブルと椅子は、備品として当初から設置されていた。流しは、まだ人研ぎ仕上げ
蓮根団地の居室。当時の様子を再現したしつらい。集合住宅の代名詞でもあるベランダが姿をあらわしている。窓は木製サッシ。

 

 一方、戦後に展開する団地群の代表としての蓮根団地。戦時中の建築学者・西山夘三らの研究である「食寝分離」を実現させつつ、小家族の住まいとして13坪の限られたスペースの中に、ダイニングキッチン、台所、水洗トイレ、そして風呂場まで入れ込んだプランニング。のちに2DKといわれる住戸タイプの元祖とされています。畳敷きの2つの部屋と板敷きのダイニング(食堂)・キッチン(台所)を設け、そこにダイニングテーブルを置くことで、初めて椅子座の生活を持ち込みました。防火戸としてスチールドアが採用され、外部からの独立性を高めています。入居希望者は100倍近いという、庶民のあこがれの団地住居でした。

晴海高層アパートの室内。非廊下階の住戸の玄関近くから見る。欄間には、透明ガラスがはめられている。畳のサイズは、850ミリ×2400ミリの特注畳
晴海高層アパートのキッチン。プレス加工されたステンレスシンクが用いられている
晴海高層アパートのトイレ。水洗の洋式トイレが採用された

 

 エレベーター付きの高層住宅としての試みが、10階建ての晴海高層アパート(1958)でした。著名な建築家、前川國男による、構造形式を含めて、さまざまな試みを行っています。ここで初めて、大量生産によりプレスされたステンレスシンクが用いられ、トイレは水洗の洋式トイレとなりました。竣工がたった1年違うことで、大きな変化が生まれています。予約して参加したツアーは、おおよそ1時間半。100年前から現在へいたる都会での集住の試みを体験するができる、盛りだくさんの内容となっていました。竣工時の内装にかなり忠実な復元住戸となっており、私たちの現在の住まいを知るための貴重な物差しとなっています。(鈴木洋美)