TIPコラム

部材解体し復原移築された150年前の邸宅  旧渋沢邸(1878、江東区指定有形文化財)

2026.04.30

 

1930年の大改造で和洋館並列型住宅のかたちに復原。表座敷の左側の離れを右側に変更し、そこに洋館を建てた。洋館の設計は、清水建設OBの西村好時

 新一万円札に登場した渋沢栄一(1840-1931)は、「日本資本主義の父」と称されます。生涯約500もの株式会社組織による企業の創設にかかわったとされる栄一が、二代清水喜助(1815-1881)と知り合うきっかけは、第一国立銀行(1873)の設立に際してでした。明治初年、それまでの日本にはなかった西洋建築が、手に覚えのある大工よって見よう見まねでつくられました。今でも残っているものに松本の旧開智小学校(1876)がありますが、これを「擬洋風建築」と呼びます。その名手のひとりであった喜助は、第一国立銀行(名前には「国立」がつくが、民間銀行。現みずほ銀行の前身のひとつ)の仕事を任せられます。これは、当時の擬洋風建築の代表的な作品で、喜助はこの仕事を通して、栄一の信頼を得ることとなります。

表座敷1階の居間。床の間の掛け軸は、徳川最後の将軍慶喜によるもの(展示は、模造品)。旧幕臣の栄一は、慶喜を敬愛していた。天井は赤桐の一枚板。竣工時には、ガラス戸はなかった
表座敷2階の客間(左)と廊下(右)。客間は、天井の割付けと畳の割付けを合わせた「畳うつしの天井」。1878年の竣工時にはガラス戸がなかったため、廊下の床は、外に向けて雨勾配がついている。柱を両面で挟んで固定する長押は11メートルの一本の柾目を用いているが、これは竣工時のもの

 この喜助が、晩年にかかわったのが旧渋沢邸でした。そのため、使用されている部材、さらにそこに注ぎ込まれた技法には並々ならないものがあります。表座敷1階の居間の床の間には、栄一のゆかりの徳川慶喜の掛け軸(実際の展示は複製物)が掛けられています。2階の客間では天井の割付けと畳の割付けが同じで、これを「畳うつしの天井」と呼びます。大工の技の見せ場といえますが、現存事例の中では一番古い例だと考えられています。ここには、畳も通常とはことなる1:3(90×270ミリ)のものが用いられているなど、空間に統一感と高い意匠性を生み出しており、現存する喜助による唯一の作品となります。

洋間の客間。チューダー様式の暖炉と窓をもつ英国調
洋間の広間。暖炉には大理石が用いられている

 旧渋沢邸は、もともと東京・深川福住町に建てられ、1908年に東京・芝区三田綱町に移築され、増築・改築がなされ、栄一の跡を継いだ孫の渋沢敬三(1896-1963)の意を受け、「銀行建築の名手」として知られる清水建設OBの西村好時によって1930年には洋館が増築されました。日本の敗戦後、財産税で旧渋沢邸は国に物納され(大蔵大臣であった敬三が制定した税制を自らに適用)、紆余曲折を経て1991年に渋沢家秘書の杉本行雄が払い下げを受け、青森県六戸町に移築し、それを2019年に清水建設が譲り受けて、2023年江東区潮見に移築したというのが、大よその経緯です。移築地江東区の潮見は、埋立地で準防火地域であり、1000㎡を超える木造には、柱、開口部などに制限がかかることになります。そこで青森で解体した部材の状態で江東区の有形文化財の指定を受けることで基準法の適用除外とされ、復原されました。作業の終了後に、有形文化財「旧渋沢家住宅(部材)」であったものの、カッコ部分をとって「旧渋沢家住宅」として有形文化財として再度指定されています。(鈴木洋美)

洋館側から見た外観