TIPコラム
生活の次元で和と洋と科学を融合した家 聴竹居(1928)
2026.10.31

帝国大学でジョサイア・コンドルにならった辰野金吾、片山東熊らをはじめとする日本の建築家たちにとって、住宅は自らがたずさわるべき対象ではありませんでした。彼らにとって、府庁舎、駅舎、銀行、博物館など、西洋建築の様式に学びそれを日本において実現するのが第一の使命と考えられていました。そうした中、彼らの二回り近い後輩世代である、藤井厚二(1888-1938)は、建築家として住宅と向かい合い、5回にわたる自邸の実践とそれにもとづく理論の両面で、住宅を建築として位置づけなおした建築家でした。

生まれは、広島・福山の裕福な造り酒屋の次男。1913年東京帝国大学建築学科を卒業し、同年、請われ竹中工務店に入社。同社では最初の帝大卒の設計課員。エポックとなる大阪朝日新聞社を担当し、村山龍平邸・和館、橋本汽船ビルジングなどに設計担当として携わっています。同社に6年勤務すると、造り酒屋をついだ兄・祐吉の経済的支援を受け、欧米へ10か月ほど海外視察に私費で出かけます。帰国した1920年には、新設された京都帝国大学工学部に、武田五一の招きで講師となります。では、いったい、藤井は、どの地点で住宅へとまなざしを向け始めたのでしょうか。

藤井が大学を卒業したのは、大正3(1912)年。同時代の欧米の建築思潮にふれています。それは、おらくセセッションをはじめする同時代のモダニズムの建築だったはず。さらに、退社後に海外視察を通して、欧米の同時代の建築界の動きにも、直にふれています。国家の意匠づくりを中心とする先行世代の建築観とは異なるものがあったはずです。竹中工務店の勤務時代、1915年に第1回の自邸を建てています。退社後、自邸への取り組みが加速します。1920年に第2回の自邸。さらに、現在の京都・大山崎、天王山の麓に約1万2千坪の土地を求めて、1922年には第3回の自邸、そこでは1年かけて気温などのデータを収集。京大では、環境工学の授業を担当し、建築側(パッシブ)から室内環境を考えることは自然なことでした。(そこから、空地中で冷やし空気を室内にとおす「クールチューブ」という発想につながったのではないでしょうか。)1924年には第4回の自邸、これらの自邸での研究成果を総合するものとして1928年に第5回の自邸である聴竹居がつくられました。藤井の建築は、大工の酒徳金之助との協働作業によって建てられました。酒徳は敷地内に住み込みで作業にあたり、藤井がパースを描き、寸法を入れたものを図面に起こしたのは酒徳でした。寸法は尺貫ではなくメーターモデュールを用いて建てており、とても先駆的に見えます。

この住宅は、居間を中心とする家族ための空間が中心に置かれ、イス座と畳座が混じり合っても違和感のないしつらえで、そこで暮らす人の生活をつつみこみます。同居していた藤井の母のための畳の小上がりは、床上327ミリ。そこに着座した人の視線と椅子に座った人の視線が通い合います。(小上がりの下に、クールチューブの導気口があります。)開口部に用いられた障子によるやわらかに拡散された光が、室内をやさしく包みます。みごとに、和と洋と科学が融合を遂げたといえます。藤井は、自邸での成果を『日本の住宅』(1928)、『聴竹居図案集』(1929)、さらにそれを統合した『THE JAPANESE DEWLLING-HOUSE』(1930)を刊行しています。建築家として情報を積極的に社会へと発信していく面でも、藤井はパイニアのひとりでした。(鈴木洋美)


・関連資料
松隈章『聴竹居 藤井厚二の木造モダニズム建築』平凡社、2015
竹中工務店設計部『「聴竹居」実測図集』彰国社、2001
※聴竹居を見学することもできる。詳しくは右記まで:一般社団法人 聴竹居倶楽部(https://chochikukyo.com/)
