TIPコラム
ビルの公開空地に復原・移築されたモダニズム住宅 土浦亀城邸(1935、2024)
2026.02.01
土浦亀城邸は、東京・青山の高層ビルの立ち並ぶエリアの公開空地に立ちます。土浦夫妻が存命中の1995年に、東京都は都指定文化財としており、それは夫妻が亡くなった後もこの記念碑的な住宅を遺そうという東京都の方策でもあったといいます。そのため、通常であれば、歩行者にビルの一部を開放する敷地である公開空地に、文化財指定を受けた土浦邸を移築する道が開かれたといえます。

1935年に建てられた土浦亀城邸は、実は2つ目の自邸。土浦は、帝国ホテル建設のために来日した巨匠ライトと先輩の遠藤新を通して知り合い、1923年には妻・信子とともにライトの元へ旅立ちます。ふたりは、ライトのアトリエ・タリアセンで3年間学び、その焼失を機に日本へ舞い戻ります。ライトの教えをもとに、土浦なりの方向を模索。1931年の谷井(やつい)邸を見ると、当時流行りの「国際様式」(インターナショナル・スタイル)の建築へと変貌を遂げています。白い箱に、大きな窓。この作品を見た師のライトは、「私には、お前もまたノイトラと一緒にガスパイプやマフラー(消音器)スタイルへと去っていってしまったように見える」と、嘆いたといいます。


当時の若き日本の建築家たちを突き動かしたモダニズム建築は、工業化をベースに簡易に組み立てられる住宅を社会へ供給するというものでした。その手法が「乾式構造」(トロッケン・バウ)。ここで、注目したいのは、当時の欧米の同時代の建築家たちとともに、日本の建築家たちも試みていたことです。とくに、日本の若き建築家たちが国際様式に惹きつけられたのは、外観のスタイルもさることながら、日本の畳座を中心としたものにはなかった新たな建築との出会いがあったと考えられます。家の中心となる居室部分の大きなボリューム(空間)は、それまでの日本には存在しなかったもの。海外では、鉄骨造、鉄筋コンクリート造で試みらましたが、日本の建築家たちは木造に置き換えました。そうした初期モダニズム住宅の集大成が土浦邸でした。


土浦邸の復原・移築の経緯は興味深いものです。1996年に、亀城が98歳で亡くなり、その2年後、1998年に妻の信子が98歳で後を追います。その後ながらく夫妻と生活を共にしていた女性が守っていました。2016年から住宅遺産トラストが新たな後継者探しを始め、幸運なことに賛同する篤志家が現れ、その動きにある企業が呼応し、保存に向けて動き出します。建築家の安田幸一と歴史考証の加藤雅久らがチームを組み、東京工業大学(当時)の研究室のメンバーが参加して、実測調査、歴史考証を踏まえた、6年に及ぶプロジェクトとなりました。復原では、つぎの100年を目指して、健全な造作材やつくり付け家具、スチール・サッシなどを再利用しつつ、構造材・外装材、内装材の大半を交換し、耐震性・設備の更新し、増築部の撤去と色彩を竣工時に近づけることで当初のかたちに「復原」することが目指されました。当初の環境とは様変わりした、都心のビルの公開空地へ移築され、法人が建物の維持管理にかかわることで、土浦邸は住宅遺産として、安定的に多くの人の目にふれる機会が増すこととなりました。(鈴木洋美)

参考
『モダンリビング』2024年277号
藤森照信『日本の洋館』(第6巻)講談社、2003
『新建築』2024年9月号
