TIPコラム

90年前の都市生活の証言者  同潤会江古田分譲住宅・佐々木邸(1934)

2024.03.28

 100年前、関東大震災により、東京・横浜地区を中心に大きなダメージを受けました。そのとき、国内外から寄せられた義援金をもとに設立されたのが、同潤会でした。中でも、都市に集まって住むことをかたちにした、アパートメントと名づけられた集合住宅は有名です。その一方で、同潤会は、戸建ての住宅地も手掛け、500を超える住宅を供給しています。佐々木邸は、その中のひとつで、しかも竣工時の姿で残る唯一のもの。ここには、近代日本における洋風と和風がうまく融合された、近代和風の到達点を窺い知ることができます。

正面の家のかまえ。板塀と植栽と玄関へのアプローチは、竣工時の同潤会住宅に共通した佇まいであった。かつては、家と家との間は、生垣で緩やかに仕切られ、住民同士の交流もさかんであった
南側の主庭から縁側部分と正面の増築部分を見る。サッシとなったものを元のガラス戸に戻した。建物の基礎部分は、竣工時のまま。道路を挟んで向かい側に、日大芸術学部の新校舎が新築されたときに床の傾きを測定したが、問題はなかった

 

 東京・江古田の中の住宅地の一画。正面アプローチに立ってみると、その家のかまえは和風そのもの。玄関に入ると、3畳のタタキの土間と3畳の広間。右側からは表の顔である洋間と客間へとつながります。8畳ほどの洋間は、アールデコ風の丸いテーブルと椅子があり、天井は凹凸を強調したデザイン。初代当主が大学で要職を務めていた関係で、多くの来客があったといいます。リラックスした応対には、8畳ある客間に来客を通すこともできます。

 南側には客間に接続して幅1間の広縁があり、一種のサンルームとなっています。孫として生活した能登路雅子さんにとって、絶好のお絵かきのスペースともなったといいます。つぎに、家族の生活の中心となった、居間と茶の間がありますが、客間とは壁をずらし、押し入れを挟むことで独立性を保って配置されています。

洋間の内観。調度品、壁と天井の仕上げは創建時のまま。採光は2面の大きな窓からとった。南側の窓には、花台が設けられている(左)。洋間のコーナー外観。窓枠は白く塗られて花台がつくが、和の中にうまく溶け込んでいる(右)
広縁より洋間と客間を見る。広縁の幅は1間あり、サンルームであると同時に、表の洋間と客間をつなぐ空間でもある(左)。客間より居間を見る。居間を半間分ずらし(雁行)ている。客間と茶の間のあいだに押し入れを挟んでいるため、客間からは直接に茶の間に入ることができない(右)
南側広縁より見る。サッシは、創建時の木製ガラス戸に。右手奥には、増築部分が見える(左)。中廊下より玄関方向を見る。左(南側)に居室、右(北側)に水回りを配置している。黒いダイヤル式の固定電話は、現在も使用可能。最初に予備の音がなり、その後に音が鳴り響くようすが、当時を知る者にとって、とてもなつかしい(右)
創建時のまま五右衛門風呂のかたちで復元された。実際に、薪をくべれば風呂を沸かすことができる(左)。明るく家事動線のよい台所。勝手口兼内玄関があり、隣はお風呂場へとつながっている。御用聞などは、玄関ではなく勝手口を利用した(右)

 

 佐々木家では、1934年の竣工の翌年、主屋とは別の大工によって、3つの部屋とトイレ、流しを増築し、父方の祖母、叔母を呼び寄せて、いっしょに暮らし始めています。敷地約147坪に、建坪約46坪を生活の舞台として、家族の構成員の人数も変わりながら、住み継がれてきました。現在、ここを管理するのは、能登路雅子さんと姉の奥村園子さん姉妹。幼少時6年間、母方の佐々木家で生活した二人にとって、この家は格別の意味があります。当初30軒からなる分譲住宅地は、一軒一軒と姿を変え、気がつけば竣工時のまま残るのは佐々木家だけに。この家のもつ歴史的な価値をもとにまわりの人々を説得し、将来、文化財として保存することで関係者の合意ができました。

 2010年には、主屋部分が国の登録有形文化財に。改修では、創建から約35年間の状態の再現を目標に置き、家具調度品のレイアウトを見直し、屋根を葺き替え、サッシを木製のガラス戸に替え、風呂は五右衛門風呂へ、さらに塀はスギの板塀へと復元しています。特別なものだからではなく、当時の普通の都市生活者の舞台で、時代の証言者であると同時に自分たちの思いの詰まったものだから、創建時の状態で「生きた文化財」として残すということが、二人の共通の思いとなっています。(鈴木洋美)