TIPコラム

自然と村人たちがつくり出した家のかたち   富山県五箇山の合掌造りの集落(江戸時代中頃)

2024.04.24

往時の姿がしのばれる五箇山・菅沼の合掌造りの集落

 のどかに見える山間の限られた平地に集合する民家の里。ここは、世界遺産となっている菅沼合掌造り集落です。日本の原風景にもなぞられる民家のある風景は、合掌造りという斜材を組んだかたち(扠首組み)の屋根を架けることで、大きな内部空間を実現しています。五箇山が、日本でも有数の豪雪地帯であると同時に、耕作面積が狭隘であったことから、換金できる養蚕業を中心とする仕事が家屋内へと入ってきました。それに伴い、家の空間規模が拡張され、作業スペースとして小屋裏のスペースがどんどん広くなっていきました。こうして、江戸時代中ごろに合掌造りの民家群は生まれたのです。明治の中ごろを過ぎると、他の地域で生産する繭の価格と対抗できなくなり、この地方の養蚕業は衰退へと向かい、同時にこのタイプの民家の役割もひとまず終わることとなります。

妻側を見る。1階部分が住居スペース、2階以上の「あま」の3層部分が養蚕業スペース(左) 小屋裏の見上げ。妻側の開口部分より光を取る(右)
妻側の1階部分に軒がつけられ、スペースが拡張されている(左) 妻側に「木壁」(こかべ)という竪羽目となっている(右)

 民家とは、もともと「庶民の家」のことをいいます。一般には、伝統工法でつくられたものをさします。日本の民家について貴重な仕事を残した川島宙次によると、五箇山の民家の屋根はもともとは四方に流れをもつ寄棟屋根だっといいます。そこに、採光の必要から小窓がつけられ、屋根を切り上げて窓が大きくなり、それがさらに大きくなり、妻側のスペース全面から採光をとれる切妻屋根となったのです。この変化を促したものが養蚕業だったのです。合掌造りの標準的な民家を断面で見ると、人の暮らしの舞台となった1階、その上に養蚕業スペースとして3層が積み重なっています(2階以上を「あま」という)。合掌造りという建築形式が、建物を容易に大規模化するのに適しており、必要な養蚕に必要な採光と作業スペースが確保するのが簡便であったことが、合掌造りの民家集落が生まれた背景にはありました。

五箇山・相倉の合掌造りの民家群。集落の規模としては、菅沼より大きい
五箇山・相倉の合掌造りの小屋裏。斜材を組み合わせ頂部に棟木を載せた扠首組みのしくみがよくわかる。現在は、展示スペースとなっている

 合掌造りの民家の屋根は、「ゆい」という村の協働作業によってつくられていました。1階の柱梁組を近隣の出稼ぎ大工によってつくってもらい、屋根の小屋組みは、村人自らが行ったのです。身近にある茅を集めておき、真竹などの屋根下地の上に、茅の根元を外に向けて葺いていきました。地元で採れた材料で、地元の人々の手でつくられた民家は、地域性と風土性を造形するという点からも優れています。ちなみに、茅葺屋根は断熱性にすぐれ、また通気性などにもすぐれ夏の暑さに対してもメリットがあるといいます。ただし、10〜20年周期で屋根を葺き替えなければならず、しだいに材料も人員の確保もむずかしくなり、特別な場合を除いて、多くの民家の屋根が金属屋根などに葺き替えられていくこととなりました。(鈴木洋美)

撮影:畑拓

参考:川島宙次『滅びゆく民家』(「屋根・外観」1973、「間取り・構造・内部」1973、「屋敷まわり・形式」1976)、主婦と生活社