TIPコラム

生き延びた大正期の大邸宅  旧朝倉家住宅(重要文化財、1919)

2025.05.20

旧山手通りから見たヒルサイドテラス。その奥に、旧朝倉家住宅の主屋の2階が見える。旧山通りの整備には、議員時代の朝倉虎治郎が大きくかかわっている
玄関正面を見る。どっしりと大地の上にたつ重厚なたたずまい。屋根には丸みを帯びた仕上げ。瓦は三州瓦である

 旧朝倉家住宅は、東京の都心・代官山にたつ、1919年に竣工した100年を超える大邸宅。敷地は、住宅と庭園を合わせると5,419㎡(約1,642坪)もあります。もともとは、鬱蒼とした緑に囲まれた、大規模な敷地からなるお屋敷町の一画でした。建築家・槇文彦の手になる1969年から1998年の30年間、都合第7期にわたって繰り広げられたヒルサイドテラスのプロジェクトは、旧山手通り沿いに展開されていますが、ちょうどその裏側にあります。実は、槇文彦とともに、このヒルサイドテラスのプロジェクトを進めた朝倉不動産はこの朝倉一族が起業したものでした。

第1会議室より庭園、左側に応接間を見る。建具は、竣工時のものがいまも使われている(左)、第1会議より庭園、右側に角の杉の間を見る(右)

 朝倉家は、江戸末期から続く米問屋。入婿となった虎治郎が家督をつぎ、政治の世界へと足を踏み入れると、実業は虎治郎の弟、八郎が担当し、二人三脚で、事業を大きくし、東京でも有数の米問屋となるとともに、多くの土地をもつようになります。これが、のちに不動産業へと進むきっかけとなります。虎治郎は政治家として、渋谷町会議員として活躍しました(1904年から1933年の間)。住宅は、1919年、虎治郎によって、多くの陳情客に対応できるパブリックな要素のつよい住宅として建てられました。

角の杉の間より、庭園方面を見る。柱には、「柾目」ではなく、木の年輪が模様をなす「板目」を用いている。朝倉家に婿入りする前に、東京深川・木場の材木商ではたらいていた虎治郎は、材木について知識も深かった。 杉の間は、障子と板戸(雨戸)の構成で、ガラス戸は用いられていない。この日は、雨模様のため、板戸が引かれているが、晴天時には、雨戸は収納され、庭園と一体化する

杉の間より中庭を見る

 玄関正面から見た様子は、重厚なたたずまい。屋根には、虎治郎の故郷三河の三州瓦が丸みを帯びた「むくり」で葺かれています。構造的にも強い材が用いられています。木造としてスパン2.5間で3部屋並ぶ「続き間」は堂々としていて、間仕切りを取りはずせば、1室空間としても使える自在性があります(現第1会議室)。大邸宅の庭園に面した南側の居室は、客人を招くための応接室、杉の間、茶室などで占められます。家族のための居室は、北側の内玄関を入り、台所、食堂(現管理事務所)、2間続きの家族室(面皮室)のみで、他に使用人の部屋、納戸がありました。家族室は、中庭に面しているため採光は確保されているものの、全体に占める割合はとても小さくなっています。明らかに、家族のための住宅というより公的な空間に重きを置いた構成となっています。

庭園へといざなう門。旧朝倉家住宅は、建築と庭園が一体的に計画されている
庭園より主屋を見る

 旧朝倉家住宅は、さまざまな経緯を経て、竣工時の姿をいまだにとどめています。台地の上にある敷地条件がよく、1923年の関東大震災で、主屋は被害を受けず、また幸にして戦災に遭うこともありませんでした。ところが、戦後1947年には相続税支払いのため売却され、最終的には、旧大蔵省(現財務省)の管理下に置かれ、1964年には渋谷会議所と改称されました。一時、民間への売却も検討される中、故鈴木博之東大教授、設計者らの保存への働きかけが功を奏して、2004年、主屋、土蔵、宅地が重要文化財に指定され、2006年に渋谷区が管理団体となりました。このように、さまざまな幸運と人力により、いくたびもの存亡の危機を乗り越え、旧朝倉家住宅は、見事、生き延びることができたのです。(鈴木洋美)

参考文献

ヒルサイドテラス50周年実行委員会監修『HILLSIDE TERRACE 1969-2019』現代企画室、2019