TIPコラム

焼失をのがれた書斎をもつ家  豊島区立鈴木新太郎記念館

2023.06.28

路地側から書斎を見上げる

 東京メトロ新大塚駅を降り、大通りを抜け道幅の狭い路地を分けっていくと、それはあります。あたり一帯は、1945年4月13日の大空襲で多くの家屋が焼失していますが、戦後を経ても区画整理がされていないために道幅だけは当時と変わらないはずです。いまでは、ほとんどの家屋が建て替わっている中で、この鈴木新太郎記念館の書斎部分は戦災を超えて、現存しています。路地側から大谷石の擁壁で囲まれた敷地を見上げると、洋風のRC造の建物となっています。

左側に移築された主屋、真ん中が茶の間・ホール、奥が書斎

 ステファヌ・マラルメというフランスの象徴派詩人などの研究で知られる鈴木新太郎が、ここに家族のために新居を建てたのが1921年、畳の続き間をもつ和風の木造2階建て。そして、満を持して1927年に書斎を建てます。RC造の平屋、入口は「金庫扉」とも呼ばれる厚さ10センチの鉄扉です。窓には、厚い鉄の扉と防火シャッターがついています。

書斎の入り口の鉄扉

 新太郎には、フランス留学での苦い体験がありました。フランス留学時に買い求めた貴重なコレクションが、船の火事によって失われてしまったのです。また、直近の1923年の関東大震災において東大の図書館で数十万冊の蔵書が失われることを目撃したこともあり、貴重なコレクションの所蔵を目的とする書斎を天災・火災に耐える、当時としては珍しいRC造によってつくったのです。そして、1931年には子どもたちの勉強部屋として、書斎の上に鉄骨造で増築することとなります。新太郎は、アジア太平洋戦争が勃発し、フランスの書店から本が入手できなくなるまで、金に糸目をつけることなく本を集め続けたといいます。

書斎。書棚はチーク製のつくり付け書棚

 そして、運命の1945年4月13日の大空襲。はたしてどうなったか。翌日、主屋は完全に焼失し、書斎の2階部分はもらい火で燃え続けていました。3日目に見にいくと歪んだ鉄骨だけがのこされ焼失しましたが、1階部分は焼け跡に元の姿で残っていたのでした。RC造の書庫が貴重なコレクションを守ったのです。戦後の一時期、書斎には畳が持ち込まれて、家族の生活の場ともなりましたが、1946年には茶の間・ホールを増築、1948年には新太郎の実家から明治20年代の創建と考えられる主屋を移築し、さらに、1956年には新太郎の長男で、建築学者であった鈴木成文によって書斎の2階部分が増築されることで、現在のすがたになりました。ここにおいて、空襲に耐えたRC造の書斎が中心となり、家族と本のための家が見事に再構築されたのです。(鈴木洋美)

移築された主屋全体を見る

※参考 鈴木道彦『余白の声』閏月社、2018