TIPコラム

日本の洋館のプロットタイプ   岩崎久彌邸(1896)

2023.04.21

岩崎邸の正面外観

 日本にはなかったビルディングタイプである、洋館の先駆けとなった建物です。設計したのは、東京駅で有名な辰野金吾や、赤坂離宮で知られる片山東熊などの建築家を育てたジョサイア・コンドル(1852-1920)。1876年、イギリスにおける建築家の登竜門である「ジョーン・ソーン賞」を受賞し、明治政府に請われて、翌年来日。少壮建築家でありながら、いわゆる「お雇い外国人」として、工部大学校(東京大学工学部の前身)で建築の教育に携わると同時に、東京国立博物館(1881)、鹿鳴館(1883)などを設計します。1888年には、日本で最初の建築事務所を開設し、ニコライ堂(1891)、三井倶楽部(1917)など数多くの建物を残すこととなります。中でも、コンドルと岩崎家(三菱財閥)との関係は深く、この建物もその産物ということができるでしょう。

正面左側にある階段部分。竣工後の改修によって、窓の下にあった軒は切断され、窓の面積が拡大された

 当時の洋館は、日常の用ではなく、人を招くための晴れの場。西洋風の外装をまとうだけでなく、西洋式な生活装置が同時に内部に持ち込まれたのです。洋館には、通常は和館が併設されており、普段の暮らしは従来通りの畳の敷かれた和室空間で営まれていました。今は、正面にはシュロの木が植えられていますが、当時はソテツの木が正面入口に植えてあり、角塔の張り出た玄関部、軒の下の模様、付け柱は、コンドルがこの洋館にまとわせたジャコビアン様式といわれるもの。屋根をみると、屋根裏の出窓があり、暖炉の煙突が突き出ている様子は、和風の建物にはないものです。内部には畳の部屋はいっさいなく、椅子の生活であり、トイレは洋式となります。部屋ごとに暖炉が据えられており、その性格づけによりしつらいもさまざまに工夫がされています。

 たとえば、1階夫人客室の天井を見ると、シルクの日本刺繍の布張り。天井は32面ありますが、小鳥やアーカンサス葉をモチーフにして、すべて違ったものが貼られています。竣工当時のまま変わっておらず、当時の日本の技術の高さがわかる貴重なものです。

1階夫人客室の天井。竣工時のシルク刺繍が残されている

 洋館内部の一番の見せ場となっているのが階段部分です。コンパクトではあるものの、大きく切り取られた窓の光のもと、三つに折り曲げられた階段箇所では、彫刻の施されたペアとなった柱が1階と2階を貫いています。よく見ると、階段は壁側のみで支えられており、浮いたようにも見えるので、重々しさの中に軽さを潜ませているのです。

1階より階段を見る。写真に見える窓部分は、最初の改修時に広げられたもの

 階段を上りきって、2階のベランダに出てみましょう。ここからは、芝庭がよく見えます。洋館の特徴は、この芝庭にもあります。園遊会を催すことを考えると、池もあるような日本式庭園はふさわしくなかったのです。そして、視線を隣の建物の和館に転じると、当時500坪の広さをほこり、50人の使用人を抱えていたとされますが、その片鱗を目にすることとなります。ここが、岩崎家の人々の生活の場だったのです。かつて1万5000坪の敷地が今では、約3分の1へと縮まったものの、その状態を彷彿とさせる洋館とその敷地を同時に見学できる貴重な場となっています。(鈴木洋美)

和館より洋館を見る