TIPコラム
文豪・坪内逍遙の終のすみか 熱海市の双柿舎(1920)
2024.11.25

門から中門を抜けて玄関へとつづく細い道をすぎると母屋の玄関にいたります。訪問者は、周囲の喧騒から切り離された世界へと足を踏み入れます。玄関をあけると、逍遙の友人、会津八一による「双柿舎」の額があり、そこから視線をまっすぐにのばすと、廊下の先の庭へとつながります。 坪内逍遙(1859-1935) は、庭ばかりではなく、建物の間取り、屋根のかたちにいたるまでこだわったといいます。中でも、秀逸なのは逍遙書屋です。


逍遙は、明治、大正、昭和をまたぎ、文学者、新演劇の主導者、シェークスピアを日本で最初に単独で全訳した翻訳者、そしてなによりも早稲田大学での教育者として大きな足跡をのこしました。この逍遥の終のすみかが、熱海市にある「双柿舎」です。敷地425坪という大きな庭の中に、母屋、離れの2階屋、後から建てた逍遙自慢の和洋漢を折衷した「逍遙書屋」が、逍遙の好みにしたがって配置されています。


双柿舎の由来は、逍遙がこの庭の一隅に見つけた、百数十年をこえる2本の柿の木。逍遙が、妻センとのふたりに見立てたとも言われています。(「双柿舎」は互いを思いやる「相思舎」をかけているという説もあります。)逍遙は、熱海の中心にあり、便の良かった反面、喧騒のはげしくなった荒宿(あらしゅく)の「マッチ箱を二つ三つ積み上げたやうな小さな二階屋」(「熱海に関する追憶」)から、熱海のはずれにあり、閑静な水口村(いりむら、現水口町)への引っ越しを決意します。「逍遙選集」の年表の1920年の記述には、「水口村に別宅を営む、5月下旬落成、双柿舎と命名す」とあります。

母屋を抜けて敷地の真ん中に立つと、逍遙書屋は左側に見えます。逍遙は、和漢洋を折衷させたというものの、周囲との調和などは考慮することなく、RC造のそれは、ひときわ異彩をはなっています。大隈講堂の設計者として知られる、当時早稲田大学の助教授佐藤武夫の手を借りたものです。現地の説明によると、屋根や胴体が和で、勾欄などが漢、屋上のバトルメント(女墻)が洋となります。搭上にはシェークスピアの「リア王」から想を得た、ニワトリではなく鋳金でつくられたカワセミがあり、風が吹くとクルクルと回転するのです。そういえば、逍遙が創設した早稲田の文学科のモットーは、「和漢洋三文学の調和」であることに気づかされます。逍遙は、1階、中2階は書庫、2階を書斎とし、晩年の仕事の多くをここでこなし、最後のときもここでむかえることとなります。一つの枠には到底おさまらない逍遙にふさわしい、終のすみかとなったのです。(鈴木洋美)
※参考図書:津野海太郎「滑稽な巨人」、平凡社、2002
