TIPコラム
復原された旧近衞文麿邸 荻外荘(1927)
2025.02.26

近衞文麿(1891〜1945)が、かつての荻外荘(てきがいそう)の主。1931年の満州事変以降、戦争体制へと急ピッチに進む中、近衞は三度の内閣を組織しました。天皇家ともっとも密接な関係にある公爵家の嫡男である近衞は、身長は五尺九寸(約180㎝)とスラリと背も高く、教養も備えたジェントルマン。政党政治が終わりをとげたなかで国民から期待されたプリンスでした。とはいえ、結果的には、陸軍の暴走を止められず、中国との戦争拡大は進み、英米との戦争への方向を推し進めることになります。

その近衞が、第一次近衞内閣を組織したのが1937年で、ちょうどここに移り住んだ年です。「荻外荘」と名付けたのは、近衞の後見人であった元老・西園寺公望。もともとは1927年、大正天皇の侍医頭をつとめた入澤達吉が、義弟であった建築家・伊東忠太に設計を依頼したものでした。入澤は、漢詩をたしなむ教養人であり、妻とともに、大正時代には住宅改善の啓蒙運動にも取り組んでいました。そのためか、書院造風の外観の中は、基本は椅子座を基準に生活空間が構成され、すべての居室は天井高が3m以上あります。例えば応接室の天井高さは3.5mを超えています。近衞は、入澤からこの500㎡を超える平家と敷地を取得し、書斎と寝室を洋間から和室へと変更し、蔵と別棟を増築することとなります。



近衞が首相となると、新聞紙上にたびたび荻外荘が登場することとなります。1940年7月19日、第二次近衞内閣発足に先立ち、近衞、松岡洋右(外相)、東條英機(陸相)、吉田善吾(海相)の4人が荻外荘の客間で協議を行いますが、これは「荻窪会談」と呼ばれました。このたび復原された客間は、この会談時の写真をもとに忠実に復原しています。三国同盟をはじめ、近衞内閣が矢継ぎ早にすすめた北部仏印への進駐、大政翼賛会などについても議題にのぼったと考えられます。そして、命運を分ける1941年10月12日の、陸・海・外、企画院総裁を荻外荘に招集して和戦についての会議。陸相は中国からの撤兵に反対し、結論をえることなく、日本は米国との開戦へと踏み出すことになります。このように、荻外荘は私邸でありながら国の重要な会議の場となったのです。

そして、1945年8月15日、日本の敗戦。近衞は、憲法学者・佐々木惣一とともに改憲試案に取り組み完成させました。12月に入ると、木戸幸一らとともに占領軍から戦犯容疑による出頭命令が出され、その出頭期限の当日、12月16日未明、近衞は荻外荘の書斎(寝室)で、青酸カリを飲んで亡くなりました。享年55歳。荻外荘は、文字通り、近衞の終の住処となりました。

荻外荘はその後、1960年に玄関、応接室、客間などの約300㎡が豊島区に移築され、天理教施設へと転用されます。杉並区は、2014年に残った居住棟約300㎡と敷地約6000㎡を遺族から取得し、さらに天理教の施設として使われていたものも取得し、宮大工とともに、再合体することでもとのかたちへと復原しました。近衞が亡くなった書斎は、その後手をつけられることもなく、当時の様子をいまに伝えています。杉並区では、荻外荘公園として一般公開しています。(鈴木洋美)
*参考図書
古川隆久『近衛文麿』吉川弘文館、2015
鈴木博之編著『伊東忠太を知っていますか』王国社、2003
伊東博士作品集刊行会『伊東忠太建築作品』城南書院、1941
