TIPコラム

別所沼のほとりに立つ5坪の夢の小屋   ヒアシンスハウス(2004)

2026.08.31

東側アプローチ側外観。東南コーナ部の特徴的な開口部をもつ、片流れ屋根をもつ小屋である。右側には「ヒアシンスの旗」。立原が在宅の場合には旗が掲げられ、近隣に住む仲間たちへと知らせる

 立原道造(1914-39)は、建築家としてよりも詩人として先に知られ、将来を嘱望をされながら24歳の若さで夭折しました。建築家としての実作は、石本喜久治の建築事務所で担当したものはあっても、個人としてのものはありません。その立原が、なくなる2年ほど前に友人の詩人・神保光太郎らに送ったスケッチがもとになり、実現したのがこの別所沼公園に立つ「ヒアシンスハウス」。立原に関心を寄せる有志らが寄付を募り、それをもとに立原の生誕65年にあたる2004年にさいたま市の別所沼公園内につくられました。いま、竣工から20年が過ぎ、外壁の木材は飴色へと変わっていますが、日常の管理もよく、健全な状態に保たれています。

東南開口部を窓を開いた状態。外の様子がそのまま、内側へと流れ込む
東南開口部の雨戸を閉めた状態。内部は外部から切り離される

 「風信子」と書いてヒアシンスと読みます。これは1937年立原が2冊の詩集『萱草に寄す』『暁と夕の詩』を自費出版した際に用いた「風信子叢書刊行所」として使用されています。(この二つの詩集の奥付には、印刷として建築専門出版の彰国社の創業者、下出源七の名前の記載がある。)自分の書いた詩篇が叢書としてかたちになること、つまり立原は詩集の夢を風信子叢書と重ねたのです。そしてなにより、立原は自分を、ギリシア神話の美少年ヒアキントスに擬していたとされます(太陽神アポロンに愛されたものの不慮の事故で死んだあと、花(ヒアシンス)に変身させられる)。こうして見ると、立原にとって<ヒアシンス>という言葉の大切さが理解されます。

共有スペースより机、ベッド方向を見る。立原の案(1938、神保宛)では、ベッドの上の窓の先には道路を挟んで別所沼がある配置であった
椅子、机などの家具類は、立原をスケッチをもとに制作されている

 では、いったい、「ヒアシンスハウス」とは。20×8尺(約6×2.4メートル)の矩形の小屋。図面にはトイレは描かれていますが、キッチンなどはありません。だから、住むことを前提としていない、立原の夢にとどまるとする向きもありますが、これは、立原が卒業設計として提出した「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」の単身者用住戸が取り出され、別所沼のほとりに置かれたといってもいいのではないでしょうか。画家、文学者などの芸術家が集まって、集団(共同体)をつくる、その夢のかけらと言っていいかもしれません。神保の住んでいた別所沼のあたりは、当時、さまざまな芸術家たちが暮らしていました。立原は、神保に、別所沼のほとりに50坪程度の小さな土地を借地できないかと頼んでもいます。当時、日本では、芸術家村の建設に携わったドイツの画家・詩人のフォゲラーの影響もあり、「芸術家村」という共同体をつくることに向かう時代の気分がありました。立原も、そうした空気を吸っていたのでしょう。

東側よりベッド方向を見る。東南コーナーの雨戸は吊られている。動きは軽快である
左:友人の神保に送られたヒアシンスハウスのスケッチ。右下には、「ENTWURUF Arch. TAT. Tokyo. 1983 Ⅱ」(設計 建築家 立原 東京 1938年2月)の署名がある。右上:ヒアシンスハウスの内観パース。右下:ヒアシンスハウスの住所が書かれた立原の使われることのなかった名刺

 

 さて、片流れ小屋の中に入ります。約10畳の広さは、思ったより、広く感じます。扉を開けると友を招き入れるスペースとなります。内と外をつなぐ東南側のコーナは、広く開けられた開口部となり、友人との会話がはずみ、北側の据えつけられた机で執筆や読書を行い、西側にカーテンで仕切れば個室仕様となる据え置きのベッドがあります。この10畳ほどの広さに、交流スペース、書斎、ベッドという、立原の必要とするものすべてが組み込まれているというわけです。立原のスケッチのバトンを受けた設計者たちのこだわりか、ヒアシンスハウスの東南コーナー開口部は、コーナー部は窓と窓で閉じられる構成で、柱はその内側に隠れます。十字の切り込みをもつ雨戸は上部でレールで吊られており、椅子、テーブルなどの家具類も、スケッチにもとづき制作されています。こうして、ヒアシンスハウスは、詩人であり建築家であった立原が、詩集の次に構想した建築世界への出発地点であったのかもしれません。(鈴木洋美)

※関連資料:立原道造全集、筑摩書房、2006-10