TIPコラム

再生・保存された創建時のすがた 東京駅丸の内駅舎

2021.12.27

駅舎の中央部と南側ドームを見る

  

 東京駅は、日本の近代を象徴する代表的な「顔」のひとつといえるでしょう。日本で最初の建築家・辰野金吾が心血を注ぎ計画・設計し、鉄骨構造を用いながら、レンガによっても構造を支えています(鉄骨レンガ造)。1914年に竣工し、1923年の関東大震災にはビクともしませんでした。もう一つ、他の駅と違うのは、駅舎の中央に天皇・皇族らの貴賓室があることです。駅舎の中央からまっすぐな軸線をひくと皇居にぶつかりますが、配置計画においてかなり意識された軸線のはずです。中央の正面玄関は、天皇や皇室、国賓などの利用に際してのみ扉が開かれ、普段は閉じられています。

 駅舎の端から端までの長さは335メートルと、かなり距離があります。そのため、すがたを一望するには、皇居側に向かって下がらなければなりませんが、駅舎の中央部の駅前のスペースはかなり広く、また皇居へと続く道路の中央部は幅の広いフリースペースとなっており、容易に一望することが可能です。2012年10月に、駅舎は再生・保存されたのですが、その後駅舎前の広場も一体的に整備されました。

南側ドームを見る

 ただし、気になることがあります。この駅舎の中央部には、高層のビルディンが建たないように計画にされているのですが、その左右には丸の内駅舎の裏側の八重洲側のビルがニョキニョキと飛び出しており、丸の内側では新丸ビルなどをはじめ、かなりのボリュームをもってそびえ立っています。駅舎が、高層ビル群の谷間に置かれた感じもします。東京駅は、高層化しない代わりに余った容積率を「空中権」として近隣に売ることで、再生・保存事業費のおおよそ500億円を充当したといわれています。近隣のビルが、その分、高くなったのは致し方なし、とはいうものの、保存建物と周辺環境の整備には、今後に課題を残したと思われます。                                    

 さて、再生・保存について。東京駅は、1945年5月の米軍による空襲で全焼し、南北二つのドームの屋根は焼け落ちました。多くの人が記憶している東京駅は、仮の復旧の姿として、木造のトラス梁を用いて手際よく再建されたものでした。併せて、3階建てだった駅舎は、2階建てに変わっていたのです。その状態が、60年を超えて継続されたわけで、多くの人が慣れ親しんだこうした戦後の姿を保つべきだという意見と、創建時のすがた(当初復原)にもどすべきだという意見もあり、喧々諤々でやり合ったそうです。結局後者に決まりました(鈴木博之『保存原論』2013)。

南側ドームの内部を見る。復原されたハイサイドライトからの光が降り注ぐ。レリーフ装飾も復原された

 学識経験者、設計者、工学技術者などの協力で、工法、材料についても検討を重ね、レンガの目地までこだわっています。計画方針はとても明快で、2階までの保存できる部分については可能な限り残し、その上に3階部分を復原するというものです。構造補強と免震装置なども導入しています。重要文化財に指定されたことで、復原の方向はかなり厳密なプロセスを踏むこととなりました。昼間は、駅舎を用いながら電車が止まる深夜の時間で工事を進めたので、工期は2007年から2012年の長期に渡りました。このプロジェクトは、これからの建築の保存・再生についての大切な参考例となることでしょう。 (鈴木 洋美)