TIPコラム

ライトのモチーフが縦横に展開する丘の上の住宅  旧山邑太左衛門邸(現ヨドコウ迎賓館 1924)

2023.12.18

アプローチからエントランスまで

 フランク・ロイド・ライト(1869-1959)は、91歳で生涯を終えるまで、建築をつくり続けました。その折り返し点、47歳のとき、もっとも危機的な状態(「タリアセンの悲劇」(1914)といわれる、ライトの愛する女性が狂人の召使によって殺害され、設計事務所と自宅のあったタリアセンが放火で焼失した)にあったライトに手を差し伸べたのが日本人の帝国ホテル支配人の林愛作でした。まるで追われるかのように故国アメリカを飛び出したライトは、建築家としての再起を期して、日本で帝国ホテルの設計に取り組みました。1923年9月1日は、ちょうど帝国ホテルの竣工披露パーティーが予定されていましたが、その日の昼下がり関東大震災が起こり、幸い帝国ホテルはほぼ無傷で、ライトの自伝では堂々と「大地震に勝利した」と書かれています。帝国ホテルが建築家としてのライト復活のきっかけとなったのです。

ドアのガラスに重ねられたライトのモチーフ

 日本の滞在時、ライトにより、帝国ホテル以外にもいくつかの作品が生み出されましたが、住宅として竣工時のかたちで残されている唯一のものが「旧山邑太左衛門邸」で、国の重要文化財建造物に指定されています。南北に細長い敷地は、兵庫県芦屋の風光明媚な丘陵地帯にあります。北側から登っていくと南側に急峻な崖に行き当たります。丘を登り、北側に目を転じると、芦屋川をはじめ大阪湾への風景が一望のもとに広がります。この地形が気に入ったのであろうライトは、日本酒醸造業の山邑太左衛門の依頼に応えて、1918年に基本設計を終えました。ところが、帝国ホテル建設もありなかなか着手されません。そうこうするうちに、ライトは帝国ホテルの完成を前に、あとを弟子たちに託して1922年に日本を離れます。山邑に催促されたライトの弟子、遠藤新(1889-1951)が、後輩の南信とともに実施設計に取り組んで、1924年にようやく竣工しました。

居間兼応接室

 門から緩やかに上りながら歩くにつれ建築の姿かたちが徐々にあらわれます。エントランスを、わざと南の外れにおくことで、建物の全景を横切ることになります。そこに登場する正面ファサードは、ライトが帝国ホテルで用いた大谷石の壁と柱。そのディテールをよく見ると、精細な彫刻のような加工がされています。エントランスはピロティ形式となっており、右に曲がって大谷石でつくられた水盤を過ぎると入り口のドア。

モチーフは和室の欄間や和室の廊下部分にも顔を出す。和室の続き間は、施主の強い要望で実現したものと考えられている。日本の尺貫法を米国の寸法体系に合わせた

 階を上がると「居間兼応接室」があります。かたちは左右対称、中央に大谷石でつくられた暖炉があり、彫刻された大谷石が壁にも使われています。天井は、高さが異なる折り上げ天井で、室内はライトのモチーフが至る所に登場し、建築全体にリズムと彩りを添えています。

  四角を組み合わせたライトのモチーフは、廊下の窓に、そして和室の欄間(銅版)にも顔を出します。欄間の銅版は緑青をふいた特有の緑色となっています。

食堂

 最上階にある「食堂」は、暖炉を中心に左右対称の厳格なデザインで、装飾性の高い空間となっています。天井は、中央部が最も高い船底型になっており、三角形に開けられた換気孔から光が差し込み、独特な雰囲気を醸し出しています。

 さて、いよいよ「食堂」に併設された屋上テラスへ。そこまで、ライトの計画した坂のアプローチから導かれた私たちは、山側は六甲、海側は淡路島まで相対することとなります。(鈴木洋美)

食堂に併設された屋上テラス。屋根の背後には、食事室の暖炉の煙突が飛び出している

 

参考:谷川正己「9 ライトの遺産」(『日本の建築[明治大正昭和]』)1980、三省堂